打ち込むものを持っているか/情熱の大肯定
こんにちは。庭瀬校・前です。
みなさんは、時がたつのも忘れるほど熱中してしまう、「打ち込むもの」を持っていますか。
庭瀬校には、
〇 テニスで県大会ベスト4まで行った小学生、
〇 タイピングで全国トップ10に入る小学生、
〇 吹奏楽部にかける中学生、高校生、
〇 毎日1万メートルくらい泳ぐことに打ち込む高校生(現大学生)、
〇 お休みの日にはアカペラで街角で熱唱する先生、、、
などなど、打ち込むものをもっている人たちがたくさんいます。
そして何より、志望校合格を目指し、日々勉強に打ち込む子たちがいます。
さて、昨今。
測定したことはないのですが、こういった打ち込むものを持っている人の比率が、どうも少ないような気がします。
あくまで私の感覚なのですが。
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少し昔話におつきあいください、
私が大学に入学した1980年代、日本は一気に豊かな時代になっていった。
いわゆるバブル経済時代です。日本の株価や地価が高騰し、人々の暮らしが一気に豊かになっていきました。
そこから遡る(さかのぼる)こと10~20年(1960~1970年代)のころ、大学では<ビンボーな学生>が9割くらいで、<ちょっと贅沢できる学生>が1割くらいだった。
1980年代に入ってその割合が逆転した。
この80年代、大半の学生たちのあいだでは、
●「ひたむきになること」や
●「熱くなること」が
とことん疎(うと)ましがられていた。
「誠実さ」だとかは決して口にしてはいけない言葉で、
「感動」も禁句だった。
「愛」なんて言葉は好きな相手にのみ通用するものだった。
でなければギャグだと勘違いされ、流された。
当時の風潮がそうだったのだ。
大学のキャンパスでは、おしゃれな少年少女が軽やかに、闊歩(かっぽ)していた…。
愛媛の田舎から東京に出てきた私にはすべてがキラキラ輝いて見えた。
そんな80年代、私(前)が選んだテニスサークルは、
まさに時代の流れに逆行した<熱血・体育会系>のサークルだった。
花の〇〇大学。
約200あったほとんどのテニスサークルでは、オシャレで、軽やかで、汗や努力、根性…などとは無縁のキラキラした世界が展開されていた。
そんな中、わずか3つしかない前時代的な団体にどっぷり私ははまってしまった。
他のサークルの面々は、私のサークルの汗や声出しにまみれた練習を冷ややかな白い目で見ながら肩をすくめた。
「よくやるよ…」と。
正直、私だって最初は「せっかく都会に出てきたのに何でこんなことやるの俺?」と思ったさ。
でも、この快感~情熱的であることの醍醐味~は、経験した者にとって、麻薬のように背骨にしみ込んでいく…。
(麻薬はやったことないけど)
全力で一球を追い、声枯れるまで仲間を応援した。仲間も私を応援してくれた。
3年の時、私は主将を務め、学内団体戦で男女準優勝を果たした時は、仲間と抱き合って泣いた。
(↑さすがに学生時代の写真データは無いので、40代の写真です)
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さて、それから半世紀近い40年の中で、バブル経済の崩壊があり日本経済は一度死にかけました。
しかしその後日本はじわじわと底力を見せ、今また人々の生活はゆるやかに上昇カーブを描いている。
(今、海外諸国を超越した日本の技術力や、誠実な国民性は世界の注目を浴びるところとなっています。これについては今回は割愛します、)
つい先日、日経平均(日本の企業の株価の平均値。日本の経済状況を示すものの一つです)は80年代のバブル期につけた最高値を更新しました。
人々の生活が豊かになるというのは、みなさんのお父さん、お母さん・・・大人たちの日々の労働、努力と汗の結果に他ならないのですが、そのもとで大学生や高校生の気質には、あの1980年代のバブル期と奇妙に通じるものを感じます。
それは、「熱くなること」への冷ややかな視線。
人の価値観はそれぞれですから、そんなクールな感覚も決して否定はしません。
まあしかし、どの時代にも1%は<時代の流れとは無縁の学生>がいる。
いつもそういう「異質の存在」こそが、ものごとを面白くしてくれる。
定期テストが間近な訳でもないこの春休み、
毎日のように自習室にやってくる生徒たちにそんな匂いを感じてしまい、ついニヤッとしてしまいます。
…私は知っている。
周囲から煙たがられ、白い目で見られようと、
目標に向かって、汗臭く、泥臭く、
ガンコなまでに努力し、突き進む「情熱」無くして、
何をも成し得ないことを。
これは普遍的な事実だ。
そう、「情熱」の大肯定である。
↑ベトナム在住時代、ほんの8年前。現地に住む日本人の子どもたちにボランティアでテニスコーチをしていました。まさに「よくやるよ」と言われたものです。(笑)
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そして、一所懸命な人を横目で見る彼らは、
情熱を否定しながら、一方で、傷つくのを恐れているだけなのだ。
行動や努力を起こす前に、それが期待や希望に裏切られ、失敗してしまうことにおびえているのだ。
そのカッコ悪さがたまらなくイヤなのだ。
ひたむきな人生を送っていた人が、ふいに自信を失うことがある。
そんな時こそ、
『情熱なしには何をも成し得ない』
このことを思い起こすとよいだろう・・・。
↑ベトナムで小さな赤字のホテルの経営権を買い取ってオーナーとして立て直しをしていた頃。10年前。
月に2~3万円だったこのスタッフたちの給料を2倍にすべく悪戦苦闘しました。
いまだに彼らからはちょくちょくメッセージが届きます。
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(この場をお借りして)
父から我が子たちへのメッセージ
勉強でも、スポーツでも何でもいい。
情熱を持って打ち込むものをもちなさい。
そして、始めたらとことんやるんだ。
失敗を怒れることはない。
どこまで飛んだか、その距離を競うよりも
あなたがどこをどう飛んだか。・・・その過程が大事なのだよ。