老人と松の苗 ~あとから来る者のために~
老人が松の苗を植えていた。
そこを通りかかった君主が老人に年齢を尋ねた。
「八十五になります」
君主は笑った。
「その松が立派な木材になっても、自分では使えないだろうに」と。
八十五翁は言った。
「国を治めている人のお言葉とは思えませぬ。
私は自分のためではなく、子孫のために植えているのです」
君主は恥じ入るほかはなかった。
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江戸時代の儒学者・太宰春台(だざいしゅんだい)の著作『産語』(さんご)にある話。
また、詩人の坂村真民さんの詩にこんなものがあります。
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『あとから来る者のために』
あとから来る者のために
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を川を海を きれいにしておくのだ
ああ
あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ
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以前アジアのとある国で7年ほど働き、周辺各国の人々と交流する中で、こういった精神性は日本人ならではなのだと痛感しました。(異国の文化の中では理解されない、あるいは優先順位が異なることが多かった。)
「日本人だけがなぜノーベル賞受賞者をあれほどまでに多数輩出するか?」
こう首をかしげる異国の論調を目にすることがあります。
しかしその理由は、日本人特有の
「利他(りた:他人の利益という発想)」
「経世済民(けいせいざいみん:世のため人のために自分のベストを尽くす)」
を重んじる精神性に他ならないように思います。
自分のことが先に立ち、あとからくる者のために松を植えられない人、田を耕せない人が評価される訳がないのです。
何のために勉強するのか?
自分のため、夢を叶えるため・・・きっかけはこれでよいかもしれないが、「自分のため」だけでは限界がある。自分のために戦う人は自分のために休むもの。損得で勉強を捉える傾向があるため目線も短期的になりやすいだろう。
授業を休んで家でテスト勉強する人がいますが、目先のテストのための勉強は、本質的には真の実力を育まない。
一夜漬けや目新しいもの(ドリル、勉強法など)に飛びついて多少よい結果が出たとしてもそれは一時的なものに過ぎない。日々実直に不屈に、粘り強く繰り返す【継続・反復】こそが、風雪に負けない力を根付かせるのです。
中高生の部活はそういうことを学ぶよい機会だと思います。試合の直前ギリギリにやって役立つ特効薬なんてありませんよね。試合直前は軽い調整だけにしたり、むしろ休みますよね。日々の積み重ねこそがものを言う。
そして、自分が得た知識や学力を自分だけのためでなく、「いつか世の中のために役立てよう」というベクトル(方向性)を心に持つ人・・・小学生でもそんな発言が自然と出てくる子がいます。こういう人こそがとんでもなく伸びていくのだと、私たち教育に携わるものは多くの実例を目の当たりにしています。
部活で、先輩たちから教わらなかったでしょうか?
後輩たちに指導したのではないでしょうか?
それは自分のためにやったことではないはず。
本当に強い部はそういうことが受け継がれている。
勉強もそうです。
自分が解くことだけで一杯一杯なようではまだまだ。
「これを友だち(あるいは弟妹)にどうやって教えたらわかってくれるかな」と考えると、聞き方が変わってくるでしょう?
そういうことです。
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3月から塾では新学年となります。
新学年が始まるに当たって、どの科目の強化が必要か考えて、
受講申込書を提出して下さい。
長い目で見て大きくどっしりと構えて、目先や小手先に走ることなく、日々植えて(積み重ねて)行きましょう。
庭瀬校 前