君たちはどう生きるか

岡山校

 みなさんこんにちは、宮崎駿です。
 高1のみなさんはそろそろ文理選択の岐路に立たされているのではないでしょうか。「正直どっちを選べばよいかわからない」、「興味のあることが色々あって困る」、「自分の人生に夢も希望もない、何にもやる気が出ない」みたいな人はたくさんいると思います。最後のやつはちょっと深刻ですけど。まあ、「迷っているやつはとりあえず理系をえらべ」とか、「BカとBスほど東大へいけ(by阿〇寛)」、とはよく言われることですが、いやいや、そんなんいうたかて、具体的な目標を設定してる人の方がまあ、圧倒的にね、勉強に身が入るわな、はっきしゆうて、おーん。せやから何でもええからとりあえずでええんよ。具体的になりたいもんとか学部とか決めとかんとしんどいで、はっきしゆうて。。。。
 ということで、例えば理系に進むにしても情報系がいいとか、農学部がいいとか、いろいろありますよね。細かいところまである程度考えておきましょう。高校3年間なんてあっちゅーまにすぎていきますよ。「わーい文化祭だ~~体育祭だ~ぃやったぜーい、ひゃっほーい、ズバズバズバズバー、ベコベコベコベコー、ファッサ!ファッサ!」などと皆さんが浮かれているいる間にも残酷に時は過ぎていくのです。迷うのは悪いことではありませんが、ただ漠然と迷うのは時間の無駄です。きちんと自分の思考を整理しながら決めていきましょう。今回のブログはそんな人の一助にでもなればいいなと思って、自分は文学部の出身なので、「文学部って何?」みたいな話をしますねー。
(※ここからはすごくまじめな話になります。ご注意を。また、あくまで個人の経験に基づくものですので、文学部の先
生方からは「全然違う」と怒られるかもしれません。あくまでも私見です。
そのつもりで参考程度にお読みください。
あ、100%興味ない人はこのへんで読むのを中止しましょう。)


基本的に「人文学科」しかない

 たとえば工学部だと情報学科や、建築学科などさまざまな学科が存在していますね。ところが国立大学の文学部ではほとんど「人文学科」のみしか存在しません。文学部生は例外なく「文学部人文学科」に所属しています。大学によっては人文学部などという名前になっている場合もあります。じゃ人文学って何なんでしょう???


whatを追究する

 学問には大きく分けて3種類あると思ってください。一つは「自然科学」、二つ目は「社会科学」3つ目は「人文科学」です。人文学と同義だと思ってください。自然科学というのはいわゆる理系の学問全般です。医学部・理学部・農学部などで学ぶものはすべてこれに当たります。社会科学とは経済学、法学などです。文系に分類されますが、文学部が扱う領域とは違います。
 ちょっとだけ昔の話をしますねー。すぐ本論につながってきますので我慢して読んでねー。
 自分が学生だった頃、塾で小論文の授業があったのですが、その時の先生が言っていた話です。皆さん、5W1Hってご存じですか?小論文を書く時にはよく聞く言葉ですが、いつ(when)どこで(where)だれが(who)なにを(what)どうして(why)どうやって(how)、という要素です。ざっくり言えば自然科学や社会科学の小論文というのはこれらのうちwhyとhowを扱う文章です。なぜ近年異常気象が起きやすいのか(why),景気を回復させるにはどうすればよいか(how)などがその例ですね。ただ、文学部すなわち人文科学が扱うのはwhyでもhowでもなく、whatなのです。「私とは何か」「死とは何か」「時間とは何か」をひたすら問うのが文学部です。なかなか難解そうな学問ですよね。「そんなことを考えて何の役に立つんだ、考えるだけ無駄だ」という人は正直文学部に向いていません。文学部っぽい人なら、「そもそも役に立つって何?」と問いかけるでしょう。
 また、英語で「人文学」というのはヒューマニズムと訳されます。つまり今までの話を総合すると「人間」および「人間の営み」について「~とは何か」と文章に接して問いかけることだということになるでしょうか
 ちなみに自分が学生だった頃、文学部の中庭に小さな立て看板がありました。そこにはこんな言葉が書かれていました↓↓↓

 「よく学び よく遊べ  文学部長」

あそぶんがくぶ」と揶揄されることもある文学部。基本的に他学部の学生さんたちに比べて時間的に余裕があるのが普通です(←ここマーカー引いといてね)。教職目指したり資格を取ろうとする人は別ですが。当時は下の句だけを都合よく解釈してしょっちゅう飲みに行ったりしてました(その分人一倍他人に迷惑かけて、恥もかいたんやけどね、おーん)。でも今思えばこれほど文学部生にふさわしいメッセージは無いなと思います。というのも人文学というのは「人」について考えるということでしたね。一般的には頭の中でひたすら思考し続ける、内向的なイメージを持たれがちですが、当然それだけでは「人」への理解は深まりません。友達と交わり、社会に触れて、喜怒哀楽様々な感情を経験し、自分自身が「人」として成長することで思考は深まるはずです。そういう意味で「よく学ぶ」ということと「よく遊ぶ」ということは連動しているのではないか。と今になって思います。恥をかくことも経験です。


常識を身に着けること

 みなさんは高校で地理歴史や言語(国語・英語)を学びますね。文系科目に苦手意識がある人は「暗記ばかりでしんどい」、というのがその理由の一つでしょう。さすがに詰め込み重視ではよくないからと、入試も近年思考力重視になってきています。ですが本来文系科目というのは、「人」としてまっとうな人間になるために学ぶもの、誤解を恐れずに言えば「常識」を身に着ける科目ではないかと自分は思っています。「常識を打ち破れ」、「常識にとらわれるな」、などなどあまり常識という言葉は昨今あまり良い意味ではないかのように用いられますが、本来常識というのはまっとうな人間になるために必要な知識だったり行動だったりするのです。たとえば現代文の問題で「心情を説明せよ」という問題がよく出題されます。なぜこんな問題が出るのでしょうか。心情というのは急には湧いてきません。何かきっかけがあって出現したり変化したりするものです。「吹奏楽部に所属する高校生たちが県大会出場を夢見て夜遅くまで練習する。→県大会予選で敗れる→幸せな気持ちになる。。。」これは常識的に考えればストーリーとしてつながりませんね。まっとうな人間であれば、悔しい・悔しいけどやり切ったなどの感情が出てきますよね。そうやって「人とは何か」を考える練習をしているのだと思っていただければと思います。そういう意味で皆さんは普段から文学部での学びに触れているのです。ですのであんまり大きな声では言えませんが、勉強ばかりしていてもだめなのです!

いろんな経験を積みましょう。文化・芸術に触れたり、人との交流を深めましょう。「よく学び よく遊べ」です。



いろんな学びがある文学部

 今はいろんな学問があって一概には言えないのですが、かつて「哲史文」という言葉があったようです。文学部で学ぶのは「哲学・史学(歴史)・文学」の三つで、その頭文字を取って「哲史文」です。正直私が大学生のころにもすでに死語と化していたほど古い言い回しです。しかし文学部で学べること、人文科学が対象とするものを考える上ではわかりやすい言い回しであると思います。まず哲学。これは高校でほとんど触れられない学問のひとつですが、まさに「人間とは何か」を地で行く学問です。正直自分も完全に理解しているかと言われれば自信がありません。次に歴史。これは皆さんにとっておなじみの学問ですが、大学で学ぶ歴史は、高校の歴史と違って知識を増やすことが本質ではありません。NHKで「歴史探偵」という番組がありますが、まさに推理小説のようなもので、過去の事実を史料をもとに客観的に追究していくのが歴史学です。つぎに文学。これはもちろん様々な文学作品を研究しますが、小説をただ読んで鑑賞するのではなく、この作品を通じて筆者は何を伝えようとしたのか、を考えたりします。最近はいろんな学問があって、「哲史文」以外にも、心理学や社会学なんかもありますね。こんなに多様な学問に触れられるのもおそらく文学部くらいでしょう。それらの根底にあるものはすべて「人間とは何か」という問いなのです。


いつまでたっても「人間の本質」は変わらない

 「これは戦ではない。なぶり殺しじゃ
 いきなりすいません。このセリフは今年の大河ドラマ「どうする家康」で、家康の息子、信康があるとき発したセリフです。長篠の合戦で織田の鉄砲隊が次々と武田軍を倒していく。最強の騎馬隊だった武田軍がいとも簡単に鉄砲を持った織田の足軽たちに殺されていく。織田軍はかすり傷一つ負わず、その場にいた信康自身もただ傍観しているだけ。それまでは兵(つわもの)の道をきわめる武士たちが力と力をぶつけ合い、力の強いものが勝つ。敵同士とはいえ、互いに敬意を払い、戦っていたのです。ところが鉄砲という武器がヨーロッパからもたらされ、戦い方が変わっていった。それを象徴する戦いとして有名なのが長篠の合戦ですね。これからの時代は力が強くて武芸に秀でているから戦に勝てるのではない。どれほど多くの鉄砲を戦いで使えるのか、つまりどれほど多くの鉄砲を購入できる資金力があるかが大事になっていく。この時の信康は歴史の転換点を目の当たりにしたのかもしれません。自分たちのような力自慢はいずれ必要とされなくなるのかもしれない。そんな風に信康が感じたのかわかりませんが、こういった感情はいつの時代にも当てはまります。現代で言い換えれば人工知能でしょう。人工知能が発達していけば、自分の存在理由がなくなるのでは、と懸念する人は少なくないはず。これからはいかに多くの知識を持っているかではなく、いかに自分らしさを発揮し、新しいアイデアを生み出すかが重要になってくる。10年後には多くの仕事が姿を消すでしょう。ここから言えるのは「時代は違えど、人間はいつも同じことに悩んだり、あるいは逆に喜んだりする」ということ。違う言い方をすれば「時代は変わっても人間の本質は変わらない」ということになるでしょうか。
 「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」という歌があります。高校生の皆さん、意味は分かりますね?「世の中に全く桜という花がもしなかったとしたら、春の人々のこころはもっとのどかなのになあ」―いつの時代も桜を見て感動し、散っていく桜にはかなさを感じているのです。千年たっても我々は桜の花に心を揺さぶられる。今にも通じる歌ですね。
 どんな国に行っても、またどんなに時間が経っても、人間の考えていることは変わらない。そういったことを実感できるのが人文学を研究する一番の面白さではないかな、と私は勝手に思っています。わたしたちは今多様性の時代に生きています。いろんな人がいて時には争いも起きる。そんなときこそ求められるのが「変わらない人間の本質」を問うことなのだと自分は思います。「私が私として生まれてきた」「私はあなたとしてではなく、私として生まれてきた」というのは考えてみれば不思議なことです。自分以外の人間は存在していないのかもしれない。自分が死ねば外の世界は存在しなくなるわけですから。そうやって考えていくと、自分以外の人と同じように心を通わすことができるというのはそれ自体とても奇跡的なことに思えてきます。多様性の時代において他人との違いは認めつつもその違いを最大限尊重する。たとえ相手が理解できない存在でもその存在自体は認める。文学部での学びはそういう要素を含んでいるのかもしれません。たとえ役に立たなくても、「人とは何か」「私とは何か」、そういうことを考えたい、というひとは是非文学部へ!
 色々と書きましたが、多少は文学部のイメージが伝わったでしょうか。長くなってごめーんね。今日はゴリゴリの真面目な回でした。ではまた。

岡山校  辻